前提:本記事では、ワークショップや講座などでけん玉を扱う際、私が色々と苦戦した経験から考察したものです。あくまで個人的な見解に過ぎません。
(けん玉講座やワークショップ、練習会などの場面で…)
人の話を聞く時は、けん玉ルックをしましょう。
とされていることがあります。
私は以前からけん玉をやってきて、この文化にそれほど違和感を持ったことはなかったのですが、
最近になって、自分が講座やワークショップなどでけん玉のコツを伝えたり、遊んだりするようになって、こんなことを思うようになりました。
それが、
「人の話を聞く時はけん玉ルック」ルールって、実は必要ないのではないか?
ということ。
(以下、便宜的に、けん玉を教えたりする側の人を「指導者」、教えられる側の人を「プレイヤー」と表記します)
けん玉ルックとは…?
けん玉ルックとは、けん玉の紐を首にかけ、胸の前にけんと玉を垂らすこと。
けん玉をやらない人にとっては「ナニソレ?」な行為かもしれませんが、けん玉プレイヤーの中では割と一般的。けん玉を持っていて突然両手で何かをしなければいけなくなったとき、けん玉ルックにして両手を空けたりします。
なぜけん玉ルックは必要とされてきたのか
指導者が、「人の話を聞く時はけん玉ルック」と指導する理由はいたって簡単です。
それは、「話を聞かせるため」。
けん玉を床に置くと倒れたり転がったりして音がなり、プレイヤーの集中力が阻害され、話を聞かれなくなります。
けん玉を手で持つと、遊んでしまい、これまたプレイヤーが指導者の話を聞かなくなってしまいます。
どうすれば話を聞いてくれるのか。昔のけん玉上手い人が色々考えた結果編み出されたのが、「人の話を聞く時はけん玉ルック」ルールなのだと思います。
首にけん玉をかけていれば、プレイヤーはけん玉で遊ぶことがない。音も鳴らない。指導者の話を集中して聞いてくれるだろう、と。
この文化は、(本などを調べると)藤原一生氏の時代からあったようです。(もしかしたらもっと前からあったのかもしれません)
今考えても、(話を聞かせるという点においては)非常に良く出来た仕組みです。義務教育の「体育座り」に近いものを感じます。(体育座りは、手を前に組まなければならないので、手で遊ぶことがなくなるということで採用されたとの説があります)
私個人の見解
けん玉ルックは指導者の怠慢?
私もけん玉ルックをして指導者の話を聞いていた頃もありました。
最近、私が指導者側の立場に立つことも出てきて、思うようになったことがあります。
それが、
「人の話を聞く時はけん玉ルック」ルールは、私自身の怠慢なのでは?
ということです。
プレイヤーも、すごく興味・関心のあることや自分に役立つと思うことは、手を止めて指導者の話を聞きます。
つまり、けん玉ルックをさせないと話を聞いてくれない状況は、プレイヤーに必要ない話を聞くよう強要しているのではないか。そうではない(必要な話である)のならば、指導者側の技量に原因があるのではないかということです。
また、プレイヤー側からすると(自分がそうであった経験から)、つまらない話を聞くより遊びたい・練習したい、と思うのは当然のことです。少しでも長い時間けん玉に触れていた方が、上達するし、楽しいと思います。
以上から、「人の話を聞く時はけん玉ルック」ルールは、プレイヤーが有益であると思えない内容を聞かせるための、半ば強引な手段であるように思えてきたのです。
プレイヤーからすると「話を聞かせたいなら、面白い話をしろよ!」ってことです。
プレイヤーに話を”聞かせる”よりも、指導者側の話の内容や話し方の工夫が先だと思っています。
けん玉ルックのデメリット
実はけん玉ルックにも問題点があると思っています。
例えば、首に紐が食い込んで痛くなること。
あとは、首下げ式の名札とめちゃくちゃ相性が悪いこと。けん玉ルックをしていたら名札の紐と絡まって悲惨なことになってしまった事例をいくつか目撃しています。
他にも、メガネやマスク、洋服のボタンと引っかかる事もよくあります。
みんながみんな、学校の体育の授業のような格好をしていればいいのかもしれませんが、そうでもなければ、けん玉ルックのデメリットは大きいようにも思えます。
思うこと
私は「人の話を聞く時はけん玉ルック」ルールを取り入れないようにしよう、と思います。
このルールを取り入れなければいけない場面になっているということは(私のワークショップのスタイルでは)指導者の技術不足です。
けん玉ルックをしなくても、皆が「なになに?」と話を聞いてくれるような技術を磨きたいと思います。
ただし、別に歴史あるけん玉ルック文化を否定するわけではないですし、けん玉ルックをする/させる人のやり方を否定しているわけでもないです。色々なスタイルがあって然るべきだと思います。
おまけ:自分を「指導者」だと思いたくない
便宜上「指導者」「プレイヤー」と分けましたが、私は個人的に自分は自分のことを「指導者」だと思いたくないです。
一応、ワークショッップや講座などをやらせてもらっているし、技のコツや遊び方を伝えているので、一般的に言う「指導者」「講師」「先生」に該当するようなことをしています。
ただ、自分のポリシーとして「指導者」にならない/なりたくない、と思っています。
プレイヤーからしたら、「先生」に教えてもらうより、同じプレイヤーからヒントを貰ったほうが楽しいし、刺激になると思います。
また、「先生」という語には、正しくなければならないというようなニュアンスがつきまといますが、”正しい”けん玉なんてものは存在しないので、そもそもけん玉に指導が必要なのかということになります。
私がワークショップなどをやらせてもらうのは、別に競技けん玉を普及させようとか、とめけんが出来る人を増やそう、などという目的でやっているのではなくて、
あくまで自分が楽しいと思っているけん玉を、他の人にも楽しいと思ってもらえる機会をつくれたらいいな、と思っているからに過ぎません。
別にけん玉をやっていて、他にもっと楽しいものを見つけたら、けん玉をほったらかしてもっと楽しいことをやればいいと思いますし、そうするべきだと思います。
けん玉をやるにしても、別にみんながみんな大皿に乗せる練習をしなくても、ある人はユニコーンを極め、ある人はけん玉積み木の芸術作品職人、またある人はろうそく相撲に勤しむ… と、各人がそれぞれ好きなことをやればそれでいいと思います。そのためには、けん玉の遊び方がいろいろあることを伝え、一緒に遊ぶ人が必要になります。私が目指すのは、そういうポジションです。
そして、そういうポジションにある人はしばしばプレイヤーに「教えられ」ます。こうしたらもっと面白いよ、とか、こんなこと出来るんじゃない?と。
けん玉で遊ぶ人は、皆プレイヤーであり、指導者でもあるのです。
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