最近、遊びに関する本を読みました。
ロジェ・カイヨワ著、多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間』という本です。
この本は遊びを体系的に分類することを試みた学術書であり、内容は難しめです。予備知識が皆無だと理解が難しいところもあり、私もところどころよく分からない箇所もありました。
ホイジンガ(遊びの研究について有名で、高校の教科書にも出てくる人物)の遊びについての議論をきちんと理解しないと、この本のすべてを完全に理解することは難しそうです。(この本はホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を受けて書かれているので、これもいつかは読んでみたいと思っています。)
ただ、スキルトイで”遊び”続けている私の視点で本書をつまみ食いするように読んでみて、いろいろと考えさせられ、面白かったので、ちょっと書いてみます。
本書を読もうと思ったきっかけ
このブログでも以前に紹介したことがあるのですが、GLOKEN(グローバルけん玉ネットワーク)が「GLOKEN10年史」というものを作っていました。

GLOKEN10年史-GLOKEN公式けん玉ショップ
2012年の設立以来、2022年で10周年を迎える事が出来ました。 昨年から多くの皆様のご協力を得て「10年史」の制作に取り組んでまいりましたが、この度完成の目途が立ちましたので、お知らせさせて頂きます。 GLOKENサポーター会員、原稿執筆者様等にお送りするのは勿論ですが、より多くの方々にこの10年のけん玉界の進化や弊社について知って頂きたいと願い、一般販売も行うことに致しました。 ---GLOKEN10年史(内容)--- ・GLOKEN年表 ・写真で振り返る10年(KWCや海外交流等も) ・お世話になった皆様からのコメントや寄稿文 ・メッセージボード集見開き(公募したもの) ・創設者インタビュー(窪田がGLOKENに込めた思いと、10年の思い出を赤裸々に語った記録) ・メディア掲載紹介 全161ページ。 販売価格 2000円(税込) ※売切れ次第終了 ※現在募集中の2023年度サポーター会員登録者へもお送りします ▼GLOKENサポーター会員登録(2023年度)はこちら https://www.gloken-shop.net/shopdetail/000000001544/ct167/page1/order/
その中で、GLKEN代表理事の窪田保さんと、同じくGLOKENのコータさんが対談するというコンテンツがあります。
その対談で、保さんが『遊びと人間』について言及している箇所があります。
ちょっと引用してみますと、
けん玉は別にいつやめてもいいんだよね。けん玉のことを嫌いになって二度と触らね―って言われるのは避けたいけどね(笑)
いつでもやめる自由がある。これは遊びにものすごく大事な部分というか絶対に守られなきゃいけない部分なんだよね。そして同時に、やりたくなったらまたやる自由もあるっていうのが保証されるべき。
遊びを研究テーマにした本では超有名なやつで『遊びと人間』っていうのがあって、字は多いし長いけど、GLOKENにも置いてあるからつまみ読みでもすると面白いよ。さっき言った、やめる自由についても書いてある。
つまり遊びの世界では、や~めたっていうのはごく普通のことなんだからわざわざけん玉界から引退します(もう戻りませんっていう意味)とか、宣言しなくてもいいと思うよ。(「GLOKEN10年史」109頁)
とのこと。
これを読んで、まず保さんの意見に強く共感しました。
そして、「つまみ読みでもすると面白いよ」と言われたからには(←お前には言っていない)、一回読んでみよう!と思ったのでした。
調べてみると、大学図書館の集密庫に所蔵されていたので、借りて読んでみました。
『遊びと人間』を読んで
まず…
本書は、(私の理解では)遊びを体系的に分類し、定義づけすることを目的としているようです。
そのため、別にスキルトイ(≒技もの遊び)に限定した本という訳ではありません。
しかし、スキルトイで遊ぶ人に響く指摘をしていると感じる箇所が多くあります。そのいくつかを紹介します。
まずは、冒頭に紹介した、GLOKEN10年史で言及された箇所。ちょっと長いですが、遊びの本質を鋭く突いた素晴らしい指摘だと思うので、そのまま引用します。
遊びは自由で自発的な活動、喜びと楽しみの源泉として定義されるべきである。参加を強要されたと感じる遊びはたちまち遊びではなくなるであろう。それはおそらく束縛となり苦役となる。人は一刻も早く解放されたいと願う。義務的になる。いや、ただ人に勧められただけで、遊びはその根本的な特徴の一つを失う。すなわち、遊戯者がそれに熱中するのは、自発的に、全く自分の意志によってであり、快楽のためにである。彼はいつでも遊びよりも隠遁を、沈黙を、瞑想を、無為の孤独を、あるいは生産的活動を選びうる完全な自由を持つ。(中略)遊びは「活気づいた気持が結びつけたものを、退屈がときほどくであろう」ところに存在するのだ。遊びは遊戯者が遊びたいから遊ぶ、そこにのみ存在する。いかに熱狂的な遊びであろうと、いかに疲労の激しい遊びであろうと、遊戯者は気晴らしを、患いからの逃避を求めて、すなわち日常生活から遠ざかることを求めて遊ぶのである。さらに何よりも、遊戯者がやめたいと思うときには、「もうやーめた」といって、立ち去る自由を持つことが何よりも必要である。(ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』34頁)
なるほど。非常に納得できるし、共感できます。
まさにそのとおりだと思います。遊びの本質を突いた指摘だと思っています。筆で半紙に書き写して、壁に貼りたいくらいです。
「遊びは遊戯者が遊びたいから遊ぶ、そこにのみ存在する。」いい言葉です。
この内容は本書の主たる内容ではなく、冒頭に少し書かれているのみにとどまります。しかし、私のようなスキルトイで遊ぶ人間に対して非常に示唆に富んだ内容となっています。
個人的には、こんな分厚い本のほんの一部ですら正確に内容を理解し、覚えている保さんの博識さに改めて驚きました(確かに、このブログでは紹介しませんが、聞いたこともないようなけん玉の使い方が紹介されていて、けん玉に関する資料としての価値もあるように思いました。けん玉愛好家ならば一度読んでみた方がいい本だと個人的には思っています。民俗学的な要素も入っていて面白かったです)。
そして、本書では遊びを以下の表のように分類していました。
本書を読んでいない方からすると聞いたこともないようなカタカナが出てきてびっくりすると思います。が、これがカイヨワの遊びの分類です。1つの分類としてアゴン、アレア、ミミクリ、インクリスの4つ(けっこうはっきりと別れている)、それとは別の軸の分類として、パイデアとルドゥス(こちらはスペクトラム的)があります。詳しくは実際に本を読んでいただくとよく分かるのですが、非常に良く出来た分類です。この分類の説明に結構な紙幅を割いていたので、気になった方はぜひ読んでみてください。
ちなみに、スキルトイはこの分類のどこに当てはまるのか気になりませんでしたか?どうやら「アゴン」の中のルドゥスに近いところに位置しているみたいです。実は、ルドゥスについての説明の箇所で、スキルトイに言及していました。
ルドゥスにおいては、戦う相手は障害物であって、一ないし数人の競争者ではないのだ。手先の器用さという面では、拳玉(ブログ主注:けん玉)、ディアボロ、ヨーヨーのたぐいの遊びを例にあげうる。たとえば、ヨーヨーの場合は、重力と回転運動の法則だ。つまり、直線的往復運動を連続回転運動に帰ることが問題なのである。(中略)ルドゥスの可能性がほとんど無限であることは容易に知れよう。(71頁)
つまり、スキルトイは、物理的に難しいことを行っており、これがカイヨワの言う「障害物」となっている。そして、これを手先の器用さによって克服するという遊びなのであるということでしょうか。
また、「戦う相手は障害物であって、一ないし数人の競争者ではない」との指摘も深いです。けん玉ワールドカップ(KWC)などで「相手は周りのプレイヤーではなく、自分自身なんだ。周りのプレイヤーは自分との戦いに挑む仲間たちなんだ」と言いますが、これはまさにカイヨワの指摘の通りだと思います。
一方で、ルドゥスについての言及の中で、ちょっと気になる記述がありました。
ルドゥスは、いちじるしく流行に左右されやすいということだ。ヨーヨー、拳玉、ディアボロ、バグノードは魔法のように出現し、かつ消えた。それらは熱狂的人気を博したが、あとをひくことはなく、あっという間に別のものにとって代わられてしまった。(75頁)
えっっ!本書が書かれた当時(1958年)はそうだったんですか!
今はヨーヨーもけん玉もディアボロも、たくさんの大会が主催されていて(WYYCとかKWCとかOIDCとか…)競技人口も多いので、廃れてないよ!と思ったのですが…
その続きです。
こうした現象は額面通りルドゥスを、個人的な娯楽を構成すると考える人には不可解な謎であろう。実際にはルドゥスは競争の雰囲気に侵されているのだ。(中略)実際、ルドゥスが辛うじて維持されているのは組織された競争心による。しかし、この競争心はルドゥスにとって本質的なものではない。ルドゥスは大衆をひきつけうる見世物的材料を一切もっていない。(75頁)
なるほど…。確かに、競技ではなく純粋にヨーヨーやけん玉やディアボロを”遊びとして”やっている人は少ない気がします。大会があることによって(=競技性を付与することによって)ルドゥスが娯楽として、遊びとして成り立っているのだと考えられます。
まだ続きます。
大ざっぱにいって、はねまわりはしゃぎまわる素朴な欲望に、たえず新たに任意の障害物を持ち出してくるのがルドゥスなのである。人間は自分のもつ知識、勤勉、技、知能を、思いきり全くむだに ―苦痛、疲労、恐怖や陶酔にたえる能力、自制力を出しおしみせず― 使ってみたいという欲求を持っている。人間がこの欲求から解放されることはないと思われる。ルドゥスは、この欲求を、〔これとは反対の〕緊張緩和の欲望と同時に満足させる無数の機会と趣向を作り出す。(76頁)
共感しかありません。我々が狂ったようにスキルトイを練習したりするのは、「自分のもつ知識、勤勉、技、知能を、思いきり全くむだに使ってみたいという欲求」によるものであるという説明は、非常に納得がいきます。そして、ルドゥス(競技性)は、そういった欲求のための障害物をこしらえるのです。例えば、けん玉のマテオチャンスという技はかなり難しいです。難しい技(マテオチャンス)という障害物に対して「自分のもつ知識、勤勉、技、知能」を思い切り使って挑むのです。別にマテオチャンスに限らず、すべてのスキルトイに当てはまる気がします。これこそ、スキルトイ遊びの本質なのではないかと個人的に思いました。
こんな指摘もありました。
遊びはたんに個人的な娯楽ではない。個人的な娯楽というのは、おそらく人の想像するよりはるかに少ないのだ。なるほど個人的な器用さが目立ち、ひとりで遊んでいても誰も異としない遊びが、とりわけ技の遊びの中には多く存在する。しかし、技の遊びはただちに技を競う遊びに変貌するのだ。(82頁)
ほう。なんだか分かるような分からないような…。カイヨワはこう説明します。
その明白な証拠はたとえばこうである。凧、独楽、ヨーヨー、ディアボロ、拳玉、輪回しの輪、これらの遊び道具は、各人がひとりで操作して遊ぶものである。だから、個人的娯楽と考えたいところだが、競争者も観客もいなければ、人はすぐこれらの遊びに飽いてしまう。潜在的にせよ、観客が必要なのだ。これらの遊びに競争の要素が現れると、めいめいが、姿の見えぬ、あるいは不在の敵を相手に、アッと言わせてやろうとする。前代未聞の壮挙をやりとげようとする。より一そうの困難に挑戦する。持続、速度、正確さ、高さの非公式記録をうち立てようとする。要するに、自分だけの記録にせよ、容易に他の追随を許さぬ記録を達成して誇りとしたいと思っているのだ。(82頁)
うわ…。とてもよく分かりました。例がスキルトイなのでスッと腑に落ちます。「観客が必要なのだ」と主張するあたりで、SNSのことを考えたのは私だけでしょうか。スキルトイプレイヤーがSNSで技の投稿をする、大会の動画を投稿する、ということがよくあります。これは、「観客を求めている」ということなのではないかと。そしてその観客(≒フォロワー)を「アッと言わせてやろうと」しているのではないかと。SNSはある意味、観客を楽に集めることが出来るツールとして、スキルトイプレイヤーに使われているのではないかと考えられます。(SNSがモチベーションという人がいますけど、こういうことですね。また、自覚していなくても無意識のうちに観客を求めているということもあると思います。)
概していえば、皆が拳玉に熱中している時に、独楽を持っていてもまず楽しくないだろうし、凧の好きな者は輪まわし遊びに没頭しているグループの中では楽しくなかろう。同じ遊び道具を持った者は、いつも集まることになっている場所、あるいはたんに都合の良い場所に集まる。そこで彼らは腕くらべをする。たいていは、この腕くらべが彼らの楽しみの本質なのだ。(82頁)
なるほど…。これで、日本全国にけん玉練習会がなぜこんなにもたくさんあるのか、ということは容易に説明がつきます。「他のプレイヤーと遊ぶと刺激になる」というのも、まさにそういうことだと思います。
少し気になったのは、ジャグリング練習会です。ジャグリングの練習会では、確かにジャグリングという1つの遊びをする人が集まっているのですが、皆それぞれ自分の専門の道具は違います(ディアボロとか、デビルスティックとか、シガーボックスとか、ボールとか、クラブとか…)。カイヨワは「皆が拳玉に熱中している時に、独楽を持っていてもまず楽しくないだろう」と言っていますが、実際のジャグリングの練習会などでは、ディアボロに熱中している人も、デビルスティックに熱中している人も混在します。そして、道具横断的に”腕くらべ”をしたりもします。ある程度相手のスキルを理解できたり、ある程度同じ括りに入るようなものでは、共に共存できる道もありそうですね。
まとめに代えて
以上は、私が個人的に惹かれた箇所をつまみ食いしてコメントしたものです。
全体を読んでみると、歴史、民俗、宗教、教育、社会学と幅広い視点から遊びについて考察しており、色々な分野のことを知ることが出来ます。
気になった方はぜひ実際に本を手にとって、読んでみてください。
個人的には、これだけ遊びを研究し尽くしたカイヨワが「遊びは遊戯者が遊びたいから遊ぶ、そこにのみ存在する。」と断言していたのが印象的でした。スキルトイはあくまで遊びであって、自分はこれからも楽しく遊びたいと思います。
私は常々、「スキルトイとかジャグリングとか、そういうものはあくまで(余暇時間に行い、富をうまない)遊びなんだから、好きな時に好きなだけやればいいし、やめたくなったり違うことをしたくなったらその本能の赴くままにすればいい」と考えていました。
(そう考えない人も多いみたいです。〇〇はスポーツだ!ちゃんとやるべきだ!けん玉は大皿に乗らないと話にならない!みたいな人も見たり耳にしたりしてきて、自分がイレギュラーなのかな?と思ったりもしていました。)
その自分の考えがこの本の内容によって(本書の主題ではないにしても)裏打ちされたような気がして、ちょっとホッとしましたし自信になりました。
ってな訳で、読むのに少々時間はかかりましたが、非常に満足感の高かった、ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』を読んだ読書感想文でした。
おしまい。
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